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書籍名 ルーマン 社会システム理論 [amazon.co.jp で検索]
出版社名 新泉社
著者名 ゲオルク・クニール、アルミン・ナセヒ
[001] 2007/02/18 16:42:15 吉田紀子
ここしばらくルーマンが気になっていた。彼についてはほとんど何もしらなかった。彼が何者で、実際に何を言ったのか、彼の理論がどのような影響を与えたのかを知りたくてこの本を読んだ。この本のおかげで、ルーマンのパンチライン、「人間はコミュニケーションすることはできない。コミュニケーションだけがコミュニケートしうる」の意味がつかめた。「なんでわかってくれないのよ」のわかってもらえない仕組み、人間が忘れられ組織や制度や主義・主張だけが大事にされてしまう仕組みがわかった気がする。

本書は、独ミュンスター大学社会科学部の講師クニ―ルとナセヒによって書かれた(当時二人とも33歳、若い)。'93年出版。原題は「ルーマンの社会システム理論・入門」。ドイツの大学で社会学の教科書に使われているという。

内容は、「1.システム理論の発展史を跡付けること、2.システム理論を組み換えて社会システムの理論を構築すること、3.それを用いて社会の理論を構想すること、4.このような理論によって、今日の社会について診断を下すこと、という大略四つの問題領域に分けてルーマン理論の分析を行っている…これをみれば本書『社会システム理論』のたんなるコンメンタールではなく、むしろルーマンの社会システム理論そのものに焦点を合わせながらルーマン理論の全体像をその生成過程においてとらえようとしていることが明らかとなろう」(訳者あとがき)

あらゆる社会的できごとは、社会システム=コミュニケーション・システム=観察システムであり、オートポイエーシス的にシステムの構成要素(コミュニケーション=情報・伝達・理解の三層からなる統一体)を自ら生産・再生産する閉じたシステムである。人間は環境に属し、システムは環境に依存するが、環境(人間)は直接的な影響をシステムに与えない。人間の意識もコミュニケーション・システムの構成要素(コミュニケーション)を生み出す主体、起動者ではない。コミュニケーションと意識とは構造的にカプリングしており、互いが他の環境になり、依存しているが、両者は、それぞれ「自己準拠的‐閉鎖的なシステムとして、完全に切離されて、重なり合うことなく作動する。」すべての社会システムはあらゆるレベルでそれぞれの中心をもち、それらの中心は決して重なり合うことがない。したがって、すべての社会システムと環境を含む世界にもはや統一的な中心はない。これがこの本を読んで得られたわたしのかってな理解。ここで使った各用語は、日常的に使われる言葉の意味とは異なり、主要な用語の概念が本の中で定義、説明されている。

最後に、本書のなかででてくる「第二次的観察」、「第二次的観察者は、観察されたシステムが自分でみることのできないものを見ることができないということを、、観察することができる。他の観察者についての観察は、どの観察もある盲点に拘束されていることを認識させる」。この視点によって、互いをながめることで社会の仕組みに影響を与えることができるとわたしは思う。
[002] 2007/02/20 15:58:36 三田 守久
 吉田さん、はじめまして、とはいえfreshMでは「お目にかかって(?)」いますが、、、。

 数年前にswimyの議論でオートポイエーシスのことが話題になり、その勉強会を開催しよう、ということになり座長に木ノ下勝郎になっていただきときどき集まって勉強会兼温泉学習旅行などをおこなってきました。
 木ノ下さんがテキストに選んだものがこの本でした。べつに輪読のようにしたわけでもないので、全員が読んでいるわけでもなく、また読んでいるひとも一部しか読んでいない、という状況です。また理解できていない可能性も(大いに)あります。
 「この本はなんだか難しく書いてあるよなあ」なんていいながらの議論ですから、どれだけ本質に迫れているか、、、。
 わたしはいまだにルーマンの主張していることがどの程度システム論として妥当なのか理解できていません。わたしにとっての疑問は、社会を社会システムとして見るにあたってなされる「複雑性の縮減」がほんとうにそれでいいのか、という点です。つまり「縮減」し過ぎてしまったらモデル化できなかろう、しても意味がないだろう、モデル化できる、という保証はどこにあるのかと感じています。というわけで、ルーマンの社会システム論のそれこそ入口で引っかかっている状態です。
 仮にそれを是として、見れば「社会システムとはコミュニケーション・システム」である、という論はまあまあ賛意を表します。

 まだまだ勉強不足で発言もできませんが、オートポイエーシス研究会はまだ存在しています。いったん第一期として終了しましたが、第二期をスタートさせようか、いま検討中です。
 木ノ下さんからは、『ルーマン/社会の理論の革命』(長岡克行著、勁草書房、2006年)という大部(本文666ページ)のものをテキストにどうかな、などと言われています。あまりに大部で二の足を踏んでいます。またこれをテキストに、ということになるともはや「オートポイエーシス研究会」というより「ルーマン社会システム研究会」になりそうなのでメンバーのみなさんのご意見をうかがってみる必要もありそうです。

 書評にもなりませんでしたが、さて木ノ下さん、吉田さんいかがでしょうか。研究会をするとしてもわたしは事務局ぐらいしかできませんが、、、。「オートポイエーシス研究会」のほうは続けられるかもしれません。
[003] 2007/02/21 00:55:06 吉田紀子
三田さん、吉田です。

わたしこそはじめまして。よろしくお願いいたします。

コメントをありがとうございます。研究会のテキストがこの本だったと聞き、うれしくなりました。わたしは、アマゾンのカスタマーレビューに、難解なルーマンがわかりやすく書かれているとあったので、買いました。ふつうは、線をひいたり、読み返したりしないのですが、今回は途中からノートをとったり、線をひきながら読みました。特に、「観察概念」のところは????で、何度も読み返しました。著者が「案内書は原典の研究の代用にはならない」、ただ「少しでも原典の研究を容易にすることができるなら…」と書いていますが、その通りだろうと思います。だから、「わかった」なんていいましたが、ルーマンさんに天国から怒られそうです。「美しき誤解だ」と…
 もし研究会の第二期をスタートされるなら、研究会の他の方々のルーマン理論についての「美しき誤解」ないし「正しい理解」を聴講させていただきたいです。
[004] 2007/02/21 11:28:08 三田 守久
 吉田さん、研究会のメンバーのほうが理解が進んでいないと思います。どこかで機会を設けます。そのときはお声をかけさせていただきます。ご教示いただければ幸いです。

 第二期については、どういうかたちでかやろうということにはなっているのですが、メンバーである上林先生が「江戸」に関心を示しておられまして、一方、わたしは「江戸はオートポイエーシス」と思っていまして、オートポイエーシスの研究会で、システム理論、ルーマンの社会システム理論、そして「江戸」の三つを適当に関心のあるかたが集まってやるのはどうか、と木ノ下さんに提案しているのでがまだご返事をいただいていません。

 というわけで(あるいは)オートポイエーシスの研究会におはいりいただくと、今後どうしようかの議論をごいっしょできるのですがどうでしょう。

 さて書評の議論の続きです。ルーマンの「観察」ですがここが理論の「肝」のような感じがしますね。オートポイエーシスとしてみれば「観察」という行為そのものがあると考えることはできない(つまり自分が見ているもの以外は見えない)と思いますが、観察システムが存在していて、その内部からであれば観察した「結果」として見ることができる(になる)、ということになるのでしょうか。結局、それは「自己言及」を意味していることにもなる。そうした「自己言及」は、一階、二階と考えることも可能だがそれらが階層をなす、というわけではない、すべてが層をなすことなく重なり合って(かどうか、散在して)いる。つまり吉田さんがおっしゃるように中心があるわけではない。またそれらが「構造的カップリング」していることもある。その結果として、相互に影響を与え合うこともあり得る(可能である)。そんな理解をしています。

 ではそう理解したとしてその先は?とたずねられるとじつはまだ?がつきます。もうすこし勉強しないとだめですね。
[005] 2007/02/24 15:31:04 木ノ下勝郎
吉田さん、
 はじめまして。

観察が、ひとつのキーワードですね。
そして、観察者と観察対象の区別がつぎのキーワード・・・こういう記述自体が、すでに「観察」を観察しているわけですが・・・
 主体(観察者)と客体(外部の対象)の区別、これが私たちの思考・認知の機構に刷り込まれています。学校教育のおかげで。科学的客観信仰、つまり地動説。これまでのシステム論。

反省は、自己観察でしょうか。自己言及。
だけど、自分の目は、自分の目を観察できない。鏡に写る自分の目の像を見るだけ。日本語の文法規約を日本語で記述しようとするパラドックス。人間が自分の脳で自分の脳を記述しようとするパラドックス。社会で暮らしながら、社会を変革しようとする自己革新。
(業務系システム開発も含まれる)

反省、自己言及、自分の目が自分に向かうとき、その頭蓋骨の天蓋には、自分が認知するすべての時間空間が映る。大いなる虚空の全世界。つまり天動説(とわたしは勝手に名づけています)。

その全世界は、子供と老人、日本人と外国人、貴方と私とでは、同じではないことを経験的に知る。それでも、社会の秩序でお互いにコミュニケーションしながら生きている。共同幻想。

なぜ、それが可能なんだろうか?
 その疑問への取り組みのひとつがフッサール現象学の「間主観性、相互主観性」。ルーマンも初期は、フッサールを踏まえていますね。

情報、言葉、言語、記号などの意味論は、科学的客観信仰の思考ではアプローチできないなあ?という感覚。
(ソフトウエアは、まさに情報や言語、記号の世界)

こういった感覚が、三田さんらとオートポイエーシスとかルーマンの社会システム論に興味を寄せる共通項かなあ、と思っております。

吉田さん、今後ともよろしくお願いします。


[006] 2007/03/11 21:16:44 山田博英


以前読んだはずなのに、まったく新しい本を読んでいる感じになんともいえない驚きを感じながら、この本を読み返し(ほんとに以前によんだのかなー?)ました。この後は僕のまたもや都合の良い解釈です;

・今回強烈に引かれた補助線;
「かつての存在論的世界は単一の文脈からなっていたのであるが、機能的に分化された近代の社会では、特殊な部分システムの世界が多数の文脈をなして生まれてくる。ルーマンの社会理論の中心的な帰結の一つは、近代社会が多中心的になったということにある。」
 −−pp168下から10行目

これは上からの全体ではなく、言ってみれば下からの全体をいっていると思う。その具体的なインプリはエンゲルバートのミッションを軸にしたCapability Infrastructure郡の形成によるのではないか(ここは大分飛躍があると僕も思います);
http://home.m04.itscom.net/hhomey/network.html

・二元コード: 補助線
・プログラム: 補助線の組み合わせによる価値付け

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