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書籍名 『カラヤンとフルトヴェングラー』(幻冬舎新書) [amazon.co.jp で検索]
出版社名 幻冬舎
著者名 中川右介
[001] 2007/12/16 08:15:37 三田守久
 まず驚いたのは、指揮者というのはとんでもなく忙しいのだなあ、ということだった。年に100回もの演奏をこなすとなると、3日とか4日とかに一回の演奏会になる。それに演奏のまえには練習もしなければならなかろうし休む間もないだろう。それにも増して、コンサートマスターはもっとたいへんかもしれない。しょっちゅう替わる指揮者のスタイルやら癖やらをすべて飲み込んでいなければならない。

 著者は、ベルリン・フィルとカラヤンとフルトヴェングラーそれに第三の指揮者チェリビダッケの約20年にわたる物語だと言っている。前半は第二次大戦の終わるまでのほぼ10年(1934年〜1945年)、後半は戦後の10年(1946年〜1955年、という感じだろうか。

 話はとてつもなくおもしろい。面白すぎてほんとうにそういうことか?と疑いたくもなる。もちろん著者はそう意図して書いている。

 「・・・ベルリン・フィル音楽監督の座をめぐり、誰がいつどこで何をしたかが語られる権力闘争のドラマであり、世代間闘争のドラマでもあり、陰謀と復讐といったどろどろとした人間関係のドラマである。クラシック音楽の知識がない方でも、歴史ドラマ、人間ドラマとして楽しめるように書いたつもりだ。」

 だからといってそれぞれの事実をおもしろ、おかしくばかりあつかうことに目を向けているばかりでもなく、相応に肩をもちながらの記述は、とりあえず公平な感じのものとはなっている。さはさりながら、フルトヴェングラーはそんなに嫉妬深かったのかなあ、それにカラヤンもそんなに権力志向だったのかなあ、などと思う。

 たしかにベルリン・フィルの指揮者は終身であるから、第四代の指揮者にカラヤンがなるためには、相当、慎重に注意深く対応しておかないと就任することはできない。第三代のフルトヴェングラーが自ら辞任を申し出るか、死去するかしなければ、チャンスは巡ってこないし、その時期が予めわかるわけでもない。
 著者は、カラヤンが第四代の首席指揮者になれたのは相応の心構えと幸運に恵まれたことによる、と分析しているように見える。

 戦中、フルトヴェングラーと主席指揮者を分け合った感のあるチェリビダッケが第四代に就任しても不思議ではなかった。

 著者は三人の指揮者のナチスとの関係の記述にかなり力をいれているが、このことはたしかに問題といえば問題だがそれほどに大きいことにも思われない。それぞれの運命に大きい影響を与えたことは事実だろうが、そのことをかれらの芸術家活動の評価に使うこともあるまい。もちろん本人たちは大いに気にしていた。裁判で可能な限り軽い処分を得なければその後の演奏活動にも支障を来すし、なによりも自らのアイデンティティに関わる。

 指揮者同士のいろいろな軋轢を聞くにつけ、日本でも100才の指揮者として話題になった朝比奈隆氏が、宇宿允人氏が世に出ることを大いに妨害した、という話を思い出す。やはりそういうことがあるんだなあ、と考えさせられる。

 本の帯には、三人の関係をまさに「三角関係」として図化している。

 カラヤン     →(表向きの尊敬)→フルトヴェングラー
 フルトヴェングラー←(激しい嫉妬) ←カラヤン

 フルトヴェングラー→  (猜疑心) →チェリビダッケ
 チェリビダッケ  ←  (忠誠)  ←フルトヴェングラー

 チェリビダッケ  →  (軽蔑)  →カラヤン
 カラヤン     ←  (抹殺)  ←チェリビダッケ

 わかりやすいが「危険」な感じもするなあ。

 それにしてもこの本の題名はなぜ、『フルトヴェングラーとカラヤン』でなくて『カラヤンとフルトヴェングラー』なんだろう。

 フルトヴェングラーのほうが20才も上だし、音楽的な評価もカラヤンを凌いでいるように見えるが、、、。カラヤンはたしかに「帝王」と呼ばれるに相応しいかもしれないが、むしろ不出世の「興行師」という面のほうが強いように思う。カラヤンを先にもってこなければならなかった、という著者の感覚がそうだということか。


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