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書籍名 『何も共有していない者たちの共同体』 [amazon.co.jp で検索]
出版社名 洛北出版
著者名 アルフォンソ・リンギス著 野谷啓二訳
[001] 2008/02/04 15:13:19 三田 守久
 なんだかわけのわからない本だ。全体としては、著者のいくつかのエッセイを、まあそれなりの意図で並べたものであろうがわかりにくい。簡単なことをわざわざわかりにくく書いているとしか思えない。なんて言っちゃいけないか。著者は相当に知られたひとであるらしいし、わたしがそういうことを言うのは10センチの物差しで1メートルを測るようなものかもしれないしなあ。

 しかし、エッセイ風の読み物のタイトルが以下のようになっているが、どんな内容を書いたものかだれもわからないだろうなあ。曰く、
 ・もう一つ別の共同体
 ・侵入者
 ・顔、偶像、フェティッシュ
 ・世界のざわめき
 ・対面する根源的なもの
 ・腐肉の身体・腐肉の発話
 ・死の共同体
ではなあ。

 全部を読む気もしないのでところどころに目を通した限りの感想は、「リンギスさんは世界中のあちらこちらに出向かないで日本にきたらいいのに。ヤオロズの神に出会えますよ」といかにも単純なものになってしまった。

 最初のエッセイのタイトルが示しているように、著者はもう一つ別の共同体を探しに世界中を歩き回り、それを肌で感じようと努力しているように見える。「もうひとつ別」ということなのだから、当然すでにかれが認識している共同体があるのだろう。むしろそれのほうが問題だと思う。察するに、それは近代の合理性が生み出したところの、いわば「論理社会」あるいは「手続社会」のことを言っているのではなかろうか。
 西欧の近代に生を受けたひとびとは、そうした社会が日常であるように生きていて、「もう一つ別」に社会があるなどとは夢にも思えずに育ってしまったのではないのか。資本主義も民主主義もみんな合理性だけで説明しようとしているのではないか。それは「無理」というものだ。

 世界を論理的に説明し尽くそうなんて、まともな日本人は考えない。かれら(西欧に育ったひとびと)はできると考えている。そうとしか思えない。

 「西洋が科学と呼ぶものは、観察の蓄積ではなく説明の体系である。」(18ページ)
 「合理的な実践は、あらゆる明晰な精神にとって同一であり、共通である言説を作り上げる。」(20ページ)
 「私たち合理主義者は、実際に実現された事業(ワーク)のもつ現実性において、自分が共同体の一員であるという現実性を自覚する。私たちは共同体そのものを一つの作品として認識するのである。・・・」(22ページ)
 「合理的共同体が登場する以前は、他者との、侵入者との出会いがあった。出会いは、人が他者の要求と異議に対してみずからを曝すときに始まる。合理的共同体ー個々の明晰な精神はその共通の言説の代表者でしかなく、各人の努力と熱情はその共同の事業のなかに吸収されて脱個人化されてしまう共同体ーの下にもう一つ別の共同体が存在している。・・・」(27ページ)

 そんなの当たり前でしょう、というのが正直なところだが、西欧に育った「合理主義者」たちはそうは思えないらしい。不憫と言うか気の毒と言うか、そうした環境しか知らないところで育ってしまったのであろうか。

 だいたいこの本がわかりにくいいという自覚が訳者にも出版元にもあるのであろうか、解説が二つついている、というか二人が書いている。そうして「訳者あとがき」もある。解説を担当している二人も訳者も、日本のことには言及していない。西洋かぶれにしか見えないがどうであろうか。

 swimyになにを求めるか、と言えばつまりは、著者リンギス氏がいうような合理的共同体の下に存在しているもう一つ別の共同体をベースにしている、という共通認識をメンバーが持ったときに解決できるのではあるまいか。

 swimyは、やむにやまれぬ感覚のもと共同体でいることを選択したひとびとの集まりである。


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